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12月は「忠臣蔵」の季節です!
忠臣蔵では敵役で知られる吉良上野介ですが、
出身地はどこなのでしょう?
また、
吉良上野介は、
なんだか偉そうですけど、
どんな役職だったのか気になります。
実は、
吉良上野介は、
儀式や典礼を教える役職につく家系でした。
なぜ殿様より威張っていたのでしょうか?
ところで、
浅野内匠頭に斬りつけられた
刃傷事件直後の上野介の様子が
書かれた文書が新たに見つかりました!
歴史が発掘されるのって、
おもしろいですよね〜
そこで、吉良上野介について調べてみました!
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吉良上野介の出身地は
吉良上野介(きら こうずけのすけ)は、実は東京出身という説があります!
江戸鍛冶橋の吉良邸で生まれました。
鍛冶橋は、江戸城の外濠外濠に架けられた橋でした。
今の丸の内駅の辺りです。
この辺りは、鍛冶屋がたくさん住んでいた地区だそうです。
ただ、他にも説があり、陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれとも言われています。。
陣屋とは、お城に替わる役所のようなものです。
吉良上野介は、吉良 義央(きら よしひさ/よしなか)のことで、江戸時代前期の高家旗本です。
生年月日は、1641年(寛永18年)9月2日。
父は、高家旗本・吉良義冬。
母は、酒井忠勝の姪でした。
兄弟は、弟が5人、妹が2人いました。
妻は、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)です。
結婚したのは、1658年(万治元年)4月でした。
上野介がイケメンだったので、三姫が見初めたという逸話もありますが、事実かどうかはわかっていません。
子どもは、2男4女でした。
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儀式や典礼を教える役職の家系
吉良家は、「高家」の家系でした。
高家は、重要な役職で、朝廷と幕府を取り持つ役目をしていました。
加えて、儀礼や典礼を指導する役目を果たす役職でもありました。
なので、大名達に次のようなことを教えていたのです。
●城中の儀礼のときの礼儀作法を教えること。
●勅使の接待を指導すること。
なぜ、こんな仕事が必要なのかというと、
江戸時代には、武家社会で格式や身分の秩序が、たいへん重要視されていました。
細かく決められていたようなので、教えてくれる人がいなければ、無作法とされてしまいますよね〜
こまかくきめられていたこととは、例えば、年中行事の服装、礼儀作法などです。
赤穂の殿様・浅野内匠頭は、吉良上野介に嫌みな指摘のされ方をして、怒ってしまったのかなあ?
実は、高家は石高は低いんです。
石高とは、収入のようなものですよね。
高家旗元である吉良上野介は、4200石。
最初数字を見たときは、びっくりして二度見してしまいましたww
一桁違うのでは??と思ったのでww
ちなみに、浅野内匠頭は5万石でした。
ですが、官位は、吉良上野介は『従四位上(じゅうしいのじょう』、浅野内匠頭は『従五位下(じゅうごいのげ)』でした。
石高は低くても、官位は上。。
複雑ですね〜
なので、大名達に指導した時には、謝礼を受けとることがありました。
これは、石高の低い高家旗本には、重要な収入源だったと言われています。
実は、高家は偉そうにしていても、懐は寂しかったのかもしれませんね。