忠臣蔵の討ち入りの日にち(日付)は12月14日!赤穂事件の推移

12月になり、忠臣蔵が話題になると、年の瀬ですよね。

討ち入りの日は、12月14日です!

この日から年末までは、
全力疾走という方も
多いのではないでしょうか。

ところで、
赤穂事件が起きてから討ち入りまではどうなったのでしょうか!

気になります。

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忠臣蔵の討ち入りの日にち

 

赤穂浪士の討ち入りの日は、元禄15年12月14日です!

ただ、西暦で言うと1703年1月30日と計算できるそうです。

 

忠臣蔵イメージ画像

 

これについては、暦の計算上の問題で諸説唱えている人がいます。

Wikiでは、「1702年ではない」と太字になっていました。

 

赤穂事件の推移

 

赤穂事件が起きたのは、元禄14年3月14日

浅野内匠頭が、江戸城の松の廊下で、吉良上野介に斬りかかったのが発端です!

この時、江戸城では、幕府が調整の支社を接待していました。
そのため、TPOをわきまえない浅野内匠頭の行動に、第5代将軍徳川綱吉が激怒します。

幕府は、浅野内匠頭に即日切腹を言いつけました。
しかも、浅野内匠頭が藩主の播州赤穂浅野家は改易になります。
赤穂城も幕府に明け渡しを命じました。

※改易とは、武士の所領や家や財産を没収し,士籍から除くことをいいます。。蟄居より重く切腹よりは軽い措置です。

浅野内匠頭の措置に対し、吉良上野介には何の咎めもありませんでした。

浅野内匠頭だけ刑に処せられたことに赤穂反家臣達は反発します。

ですが、まだ浅野内匠頭の弟の『浅野大学』を当主とした浅野家の最高の道も残されていたため、、筆頭家老の大石内蔵助は、赤穂城を明け渡すことにします。

明け渡したのは、元禄14年4月18日でした。

その一方で、江戸にいる急進派の家臣達は、まず吉良邸に討ち入ろうとしますが、警備が厳しく断念。
その後江戸の家臣達は、大石内蔵助に籠城をするよう説得を試みます。
ですが、その時にはまだ御家再興の望みがあったため、大石は賛同しませんでした。

大石は、江戸会議(元禄14年11月2日)、山科会議(元禄15年2月15日)という2度の会議を開き、急進派に行動を自粛するよう要請します。

しかし、浅野大学の閉門が決まります。
これにより、浅野家再興の道が途絶えます。

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ここから大石内蔵助は、仇討ち路線にシフトします。

元禄15年7月28日京都の円山で会議を開き(円山会議)で、吉良邸に討ち入ることを正式表明しました。

そして、仇討ちの意思確認のため、事前に作成していた血判を返してまわります。
その時、受けとらず、仇討ちの意思を表した者だけを、仇討ちに加えました。(神文返し)

元禄15年10月7日に京都を出発し、11月5日に大石内蔵助は江戸に下ります。(大石東下り)
そして、吉良を討ち取る算段を深川で会議しました。(元禄15年12月2日

ついに、元禄15年12月14日に、吉良上野介の討ち入りに成功しました!

吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供え、幕府の指示に従い全員切腹となりました。

ちなみに、幕府から許可が下りたので、元禄14年4月12日から3日間泉岳寺で浅野内匠頭の法要が行われました。そして、墓も建立されました。

ドラマ見ているだけだったので、討ち入りまでの時間がもっと長いように感じていました。
ですが、1年半ほどで、リベンジを果たしたことになります。。

まあ、この時間が長いのか、短いのかはわかりませんね。。。

美談ではありますが、なんとも悲しい話です。。

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