毎年12月になると、
忠臣蔵の話がテレビで多く取り上げられますよね。
意外と知らないことが多くて、
驚くことがよくあります。
浅野内匠頭が切腹した場所、
また
大石内蔵助が浅野内匠頭の切腹を知った時がいつかとか。
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浅野内匠頭の切腹した場所
浅野内匠頭の切腹した場所は、浅野内匠頭が罪人として預けられた田村右京太夫建顕(かちあき)の上屋敷の庭でした。
田村右京太夫建顕は、当時46歳。
若年寄で奥州一関三万石城主でした。
田村邸は、現在の東京都港区新橋4-28-31付近にあったそうです。
それにしても、浅野内匠頭が時間を起こしてから、切腹するまでは、あっという間です!
浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつける刃傷事件が起こったのは、元禄14年(1701)3月14日午前10時頃(巳の上刻)から午前11時過ぎ(九つ前)のことでした。
午後1時頃、浅野内匠頭の預かりを命じられた田村邸では受け入れの準備として座敷牢を準備していました。
午後3時頃、浅野内匠頭の身柄を引き取り江戸城の不浄門である平河門を出ます。
午後4時頃、田村邸に到着。
午後6時頃、切腹が申し渡されました。
スピード採決です!
申し開きは一切ありません。。
しかも、田村家の庭先での切腹でした。
また浅野内匠頭は、切腹のときの装束や使用する刀も、武士として尊重された扱いをされませんでした。
実は、このことで、3月19日付けで浅野内匠頭に切腹の宣告をした大目付の庄田下総守安利は、大目付を罷免され年寄りに降格されました。
理由は、浅野内匠頭の切腹場所が不適切であったことと武士の情けに欠けたことと言われています。
ところで、田村邸があった場所には、現在和菓子店「新正堂」があります。
大正元(1912)年に創業されました。
ここの名物は「切腹最中」です。
身内から縁起が悪いと反対がありましたが、1990年に販売を開始しました。
ですが、予想外に大人気になります!
新橋のビジネスマンが、お詫びに行くときに「切腹」する覚悟で、と言いますよね。
その洒落が受けたのです。
あっという間に、数々のメディアでも取り上げられ、現在は新橋を代表する土産品の1つとなっています!
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大石内蔵助が切腹を知った時
江戸時代は、情報の伝達速度が今より遅いですよね。
江戸では、即日切腹となった浅野内匠頭ですが、その情報を大石内蔵助を始めとした現地の家臣が知ったのはいつなのでしょうか。
3月14日酉の刻(午後6時すぎ)浅野内匠頭が切腹のが田村右京太夫邸で切腹が行われたのは
3月19日の卯の刻(午前6時頃)浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたと早水藤左衛門と萱野三平が知らせに、赤穂の大石内蔵助宅に到着します。
3月19日の六ツ刻(午後6時)刃傷事件を赤穂に知らせに早水藤左衛門と萱野三平が使者として出発したことを伝える早飛脚が到着します。
3月19日の戌の刻(午後11時頃)あるいは戌の上刻(午後10時頃)浅野内匠頭の即日切腹を伝える使者の原惣右衛門と大石瀬左衛門が赤穂に到着しました。
ですから、3月19日の夜遅くに大石内蔵助は、浅野内匠頭の切腹を知りました。
切腹から5日後です。
これでは、なんの手だても打てないですね。。
なんか、むなしいです。。
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